総合商社のグループ企業を1年で退職し、塾講師への華麗なる転身
(この記事は、塾長沖津ではなく、2023年に入社した講師が執筆しています。)
僕は、2022年に新卒で総合商社グループの企業に入社した後、たった1年で退社し、
現在は水戸市にあるセルフクリエイトで塾講師をしています。
華麗なる転身と書いていますが、実際は泥にまみれた、生きるか死ぬのかぎりぎりのラインでした笑
僕が、どのようにジョブチェンジを迎えたのか、そしてその後の1年間のエピソードを紹介させていただきます。
前職入社前
学生時代には検察官になるという夢を抱いていた僕でしたが、大学1年生から始めた塾講師のアルバイトに夢中になってしまい、気づけば大学4年生の10月になっていました。
今思うと、この時まではただ自分が楽しいと感じていることばかりして、現実から逃避をしていました。
僕の周りの友達の就職が決まり始めた頃、ようやく現実と向き合うことが出来ました。夢を追って大学院に進学するか、就職して安定を取るのかで悩んでいましたが、就職という選択を取りました。
しかし、就職活動の第一歩となる会社選びは、就職エージェントのプレッシャーに走らされ、僕がどん底に落ちる大きな要因となりました。
会社選びを始めてから数日後、エージェントから連絡が来ました。
「A社からの求人が見つかりました。今の時期にこんな大企業が募集していることなんてないですよ!絶対にチャンスです!」
僕はこの言葉を鵜呑みにしてしまい、そのままでの流れで何も考えずにA社にエントリーをしました。
最終的にはA社から内定をいただくことになるのですが、内定の通知をいただくまでは、落とされる理由しかないような面接を繰り返していました。
1次のオンライン面接では、時間を間違えて他の就活生の面接中にZoomに入室してしまったり、
2次の対面面接では、面接官が同郷だったことで地元の話しか出来ずに面接時間が終了。一切自己アピールが出来ませんでした。
最終面接では、検察官になりたいはずなのに大学4年生の10月まで、司法試験の勉強を一切していないことを突っ込まれ、ただひたすらに「おっしゃる通りです。」と機械のように言うしかない時間が5分間続きました。
(そもそも、どうして最終面接までいけたんだ?という話ですが。)
最終面接が終わり、「確実に落ちました。」とエージェントに報告しました。
ただ数日後、前述のように、A社から内定の通知が届きました。
当初は、驚きと戸惑いが混ざったような感情だったことを覚えています。
内定をいただいて数か月後に分かったことなのですが、2次面接の面接官をしていただいた同郷の方が、営業本部長という何やらすごい方だったようで、同郷ということだけで気に入っていただけたようでした。
これに関しては、本当に運がよかったです。
しかし、ここでの大きな失敗が1つあります。
それは自分自身で何も考えていなかったことです。
なんとなく就活して、なんとなく有名企業だから就職を決めました。
ずっとなんとなく生きている人生でした。
自分の限界を知ることが怖かったんだと思います。
入社直後
周りの方のサポートがあり、順調に滑り出したように感じていました。
どちらかというと要領はいい方だったので、仕事にも少しずつ慣れてきました
会社にかかってくる電話をとって、引き継いだり、既存の顧客相手に電話して契約を継続して貰ったり。
研修期間中に与えられた仕事は、すぐにこなせるようになりました。
入社3か月後
営業職として配属され、入社直後とは比較にならないくらい忙しくなりました。
・既存顧客に対する新規営業
・新規顧客に対する営業
・各営業の資料作り
・先輩とのロールプレイング
・電話の引き継ぎ…
「会社にかかってくる電話は新卒が全部出るのが普通だよ。」
という先輩の指導の下、1日に100件以上の電話を毎日取っていました。
電話対応だけでなく、これまで経験したことがない仕事内容ばかりだったので、毎日ついていくのに必死でした。
朝は早出残業をして夜は残業時間ギリギリまで。
ここからすこしずつ自分自身のメッキが剥がれだします。
ここまでの自分は何でも出来る、何をやっても上手くいくと、正直社会人をなめていました。
ここで、かっこつけずに正直に上司や先輩に相談していたら、違った未来があったのかも知れません。
振り返ると仕事が出来る人だと思われたいという感情や、承認欲求が強かったのかも知れないですね。
入社半年後
僕のメッキは完全に剥がれました。
同じミスを繰り返して先輩や指導係に怒られる日々。
これまであまり怒られる機会がなかったため、注意されることに萎縮し始めます。
怒られて萎縮して、また同じミスを繰り返す。この無限とも言える負のループに陥ってしまい、結果、適応障害と診断され会社を休職しました。
入社1年後
休職後は、復帰しようと会社の前まで行く訓練をしたり、会社の人事部の方と会ったり、様々なことを試しましたが復帰できずに退職することになりました。
結婚を予定していた当時の彼女ともお別れすることに。人生のどん底にいるような感覚でした。
セルフクリエイトとの出会い
セルフクリエイトとの出会いをご紹介する前に、僕と代表沖津との出会いを説明させてください。
沖津との出会いは、僕が大学時代にアルバイトをしていた個別指導塾でした。
当時、塾の代表だった沖津と、アルバイトの僕という関係性から始まりました。
バイトを辞めてからも、バイトのみんなで旅行に行ったり、頻繁に集まって飲んだりする大切な仲間です。
僕が結婚式をするときは、絶対に乾杯の挨拶をしてもらおうと考えています。笑
僕が塾講師のバイトにどっぷりはまったきっかけも沖津でした。
その塾では月1回の講師研修があったのですが、その研修がコーチングに関する研修でした。
大学1年生の僕は、人の感情を読み取ったり空気を読んだりすることが苦手でした。
コーチングと出会ってコミュニケーション能力が上がり、人の考えていることが少しずつ読み取れるようになってきました。
この辺から、塾講師のバイトにどっぷりはまっていきます。
塾の研修で習ったことを友達に試してみたり、生徒に試してみたり。
とにかくコーチングというものに興味があり、早く身につけたいと考えていました。
コーチングを身につけることで、生徒が本当に分らないと思っていることや、不安に感じていることを聞き出せるようになり、講師としても信頼されていたと思います。
そして時は流れて・・・
2023年4月、退社した1ヶ月後に、
沖津から「結婚式をするんだけど、出席してくれる?」と電話がありました。
もちろん出席のお返事をし、会社を辞めたことや適応障害になったことを報告しました。
この時期は、親以外と会話することもなく、誰からも求められることなく、ただ毎日を懸命に生きることで必死でした。
そしてさらに1ヶ月後、沖津から、
今は水戸で塾をやっているんだけど、うちで働かないか?
とお誘いをいただけました。
自分が他の人に必要とされることがめちゃくちゃ嬉しくて、
1度水戸に行ってみることになりました。
この誘いがなかったら、今もまだ社会復帰できずニートをしていた可能性があると考えると、恐ろしいですよね。 そこから夏の勉強合宿に参加させていただいたり、水戸に何度か足を運ぶようになります。
セルフクリエイトに入社を決めた理由
セルフクリエイトでは、入社のお誘いをいただいてから入社するまで約1年間の期間がありました。
その期間通じて、今までの人生はなんとなくで生きてきましたが、沖津の誘いがあってから、間違いなく自分自身で考えて、考えて、考えて、水戸に行くことを決めます。
病院の先生からも、
「今までしてきた中で楽しかったことや、やりがいを感じたことはある?」
と聞かれた際に塾講師のアルバイトです。と答えたのを覚えています。
そう塾講師のアルバイトこそ、
自分が夢中になってがんばって、楽しめていた仕事でした。
そのことに気づけてからは、自然と水戸で塾講師をするのもいいかもしれないと思うようになってきます。
これまでの人生で初めて自分で考えて決めた決断でした。この決断に至った理由が3つあります。
・沖津を信頼していること
・人に何かを教えることに喜びを感じていたことに気づいたこと
・このままだと社会復帰できずに、一生ニートのままなのではないかという恐怖心
正直、親や病院の先生からはかなり心配されました。
(一般的には、復職時は実家から出勤することが多いそうです。)
でもそのときの自分は誰かに必要とされることが、生きている上で重要なんだと感じていたので、セルフクリエイトで働く気満々でした。
セルフクリエイトでの最初の半年
ありきたりですが、セルフクリエイトでの1年間は、今までの人生の中でも最も濃い時間を過ごしているように感じます。
セルフクリエイトでは、先述したコーチングという考え方を基に授業をしているのですが、そのコーチングに基づく指導を身につけるために、
最初の半年間は毎週反省点を沖津に送り、フィードバックを貰う。
その改善点を意識しながら、翌週の授業に臨む。
本当に今までの人生で1番本気を出していたような気がします。
セルフクリエイトでの業務はこんな感じです。
・生徒の勉強計画作成
・生徒がしてきてくれた勉強内容の理解度確認
・自習に来てくれる生徒への声かけ
・英単語などの単語の確認
・生徒の質問対応
・ブログ作成
生徒の関するモノで英単語の確認以外は全て、コーチングを用いながら生徒と会話しています。
そうすることで、生徒が本当にやりたいことに気づけたり、やらなければいけないことの優先順位を考えてくれたりします。
ここで通用しなかったら、もう自分は一生社会復帰出来ない、そんな焦りもありました。
それほどまでに最初の半年間は無我夢中に仕事に打ち込んでいました。
セルフクリエイトでの1年を終えて
セルフクリエイトで1年働き、今は少し落ち着いて色々なことを考えられるようになりました。
セルフクエリエイトではMVVと呼ばれる方針があります。
Mはミッション、Vはビジョン、Vはバリューです。
ミッションは、
「教育のイメージを刷新し、全ての子どもが教育コーチングを通じて成長する社会を作ること」
ビジョンは、
「常に自己実現を目的として、教育者のロールモデルであり続ける」
ミッションは、
「自己成長を追い続ける、需要と変化を追い続ける、教育の楽しさを追い続ける」
これらのMVVを元に、自分に足りないことは何か?自分がチャレンジできることは何か?
自分なりに考えました。
その結果、以下の2つにチャレンジすることにしました。
・簿記3級取得
・数学、理科の知識をさらに取得する
簿記3級という資格をとることで自己成長できるのではと考えています。
数学と理科の知識をさらに習得することは、教育の楽しさを追い続けることに繋がると思い、勉強を始めています。
生徒が質問してくれた際に、今よりもすらすらと回答出来るようになると、今よりももっと授業を楽しく出来るのではないかと感じているからです。
このように現在では自分に足りないことは何か、これから自己成長できることは何かまで考えられるようになってきました。
今年はこのほかにも色々なことにチャレンジしていきたいです。
今までの人生と違うのは、何もかも決めたのは自分だから言い訳が通じないことです。
なんとなく就職を決めたから、そんなに頑張らなくてもいいや。
本気を出した自分はこんなもんじゃない。
今までは自分に色々なメッキを貼り付けている人生でした。
ですが自分で考えて、自分で決める。
そうすることで、メッキを貼る必要もなく自然体な自分として働けているような気がします。
日々分らないところ、不安なところは沖津に遠慮なく質問できる体制があるため、分らないことは分らないと言える環境にいられることにもすごく感謝しています。
僕がこの3年間で学んだことは、苦労せずに手に入れたことは、すぐに手放すという選択肢も持つこと。
あとは、親の無償の愛です。
僕が適応障害になってから、家族と過ごす時間がかなり増えました。
なかなか上手くいかなくて、親にひどい態度を取ったりしましたが、そんな僕にもいつも優しく接してくれました。
正直大学卒業までは親との関係はあまり上手くいっていませんでした。
しかしこの療養期間中に親との和解ができたことは、今後の人生においてもすごく大切なことだったのではないかなと思います。
今回は、セルフクリエイトに就職するまでと、してからの1年間の記録を赤裸々にご紹介しました。
少し恥ずかしい気持ちもありますが、最後までご覧いただきありがとうございます。
最後に(沖津が追記しています)
いかがでしたか。こんな思いのある講師が働いてくれています。
セルフクリエイトでは、社会人講師だけではなく、学生講師の方もたくさん活躍してくれています。
僕や彼と一緒に働いてみたいと思ってくれた学生の方、ぜひご連絡ください。
一緒に、新しい教育を創っていきましょう。
ご興味のある方はこちらからご応募ください。
募集内容の詳細はこちらからご覧ください。